復帰前夜の沖縄に迫る!! 沖縄総合事務局50年のあゆみ 第一部

設立して50年になる沖縄総合事務局の歴史を描くVTRを制作をさせていただきました。今回はこの第一部を紹介します。(トップ写真:国立公文書館 提供)

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1972 年5月15日、沖縄は本土復帰の日を迎えます。
時同じくして、いち早く沖縄を“本土並みに”と国が設置したのが沖縄総合事務局でした。

本土復帰という歴史の一幕の裏には、身を粉にして沖縄復興に尽力を注いだ方々がおられます。そんな沖縄総合事務局のその当時の職員の方々に話を聞きました。

與座章健さんは琉球政府から沖縄総合事務局に転籍。初代財務部長を務めました。

沖縄は復帰を境にアメリカドルから円へと変更となります。
生活に直結する通貨、価値の異なる通貨への変更に人々には不安が広がります。

與座さんは一体どのような思いで財務のお仕事にあたられたのでしょうか、
当時の混乱やご自身と仲間の奮闘を語ってくださいました。

復帰を前に国から沖縄に派遣された総理府の、桑原博さん。
東京で新しい法律作りに奔走した沖縄出身者の、玉城一夫さん。

全ての仕事が前例もなく、何もかもが手探りの中、
半徹夜状態が毎日続いても、刻一刻と復帰の日は迫っています。

「沖縄復興の日を伸ばすなんてみっともないことを役人がやるわけがない」
この言葉がとても印象的でした。

悲願の復帰を果たした後も、沖縄の課題は山積みでした。

現在の沖縄では中々見られることもなくなった屋上の「給水タンク」。
多い時では1年の2/3が制限給水だったという沖縄。
今となっては、過去の沖縄の水不足時代の名残です。

その立役者となったのが沖縄総合事務局に入局した仲村時男さんです。

当時、深刻な断水の続く沖縄で
「土木屋の使命としてみんなが不自由なく生活できるように」とダムの建設にあたりました。

最後は、復帰事業の総仕上げ「道路交通方式」の変更です。
元運輸部の金城弘子さんはそのXデーとなる1978年7月30日
 (通称「ナナサンマル」)に向けて奔走していました。

右側通行から左側通行になるとともに、市民の足でもあるバスの乗降口も左側へと変更となりました。その数は1,200台にも及びましたが、当日までにバスを入れ替えるなどしてナナサンマルは大きな事故なくその日を終えることができました。

                

このように沖縄総合事務局の取り組みが沖縄県民の生活のみならず、観光立県沖縄の礎も築くこととなりました。

第二部では復帰その後の”沖縄らしさ”を模索する様子を描いています。